歴史ある武家屋敷と桜並木が美しい「みちのくの小京都」。イベント情報やグルメ、宿泊施設など、角館町が育む多彩な魅力をご案内いたします。
角館町観光協会ブログ
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2007年9月

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(内町 表町下丁 いしばし民芸)


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(外町 西勝楽町 成就院薬師堂 置山)


武家屋敷でミズヒキの花が満開になりました。
長い穂に付いた花が上から見ると赤く下から見ると白いことから、
紅白の水引にたとえてこの名前がつけられたそうです。

日本書紀によると遣隋使の小野妹子(おののいもこ)が、
隋からの帰国の際に同行した答礼使が携えた下賜品に結ばれていた
紅白の麻の紐が水引の起源ではないかといわれているそうです。
その後、宮廷への献上品には紅白の麻の紐で結ぶ習慣となり、
室町時代後期になると麻の紐の代わりに紙縒に糊水を引いて乾かして固め
紅白あるいは金銀に染め分けた紙糸が使用されるようになって
現在までに至っているとの事でした。

そのミズヒキを使った熨斗袋ですが、
「結び切り」と「蝶結び」と二つあり使用する用途が違うようです。
・結びきりは一度で終わることを意味するので下記の時に使用します。
「祝い事」
快気祝い − 蝶結びにすると、
何度も病気になることを意味するので注意が必要。
結婚祝い − 蝶結びにすると、
離婚し再婚する事を意味するので注意が必要。
繰り返しを意味する蝶結びを避け、
他の結び方でもっと派手な結び方のものもある。
「仏事」
香典   − 葬儀の時のものなので、繰り返さないように。
「病気見舞い」 − 病気は一度で二度と病気にかからない事を意味する。
快気祝いも同じ意味。

・蝶結びは何度も来ることを願う結び方なので下記の時に使用します。
「祝い事」
出産祝い − 子宝に恵まれ、何度も子を産めることを願う
入学祝い − 上級の学校に入学出来る事を願う。
小学校の入学祝いなら、次は中学校の入学祝いが来るようにということ。
歳暮   − 来年の暮れにも贈れることを願う
賞品   − 何度も賞を獲れることを願う
心付け、チップ

日本の風習は意味が深くて面白いですね。

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先日戴いたコメントへの返信

じゃりんこ様

コメント有難うございます。
蝉の母、他の人にも言われました。
「何かが始まる元祖みたいな、象徴的なような、夢があっていいですね!」
その蝉も5年もの長い間土の中にいて、
羽化してから2週間で死んでしまいます。
これはその2週間を一生懸命に生き抜く大切、
5年の間一生懸命に頑張ってきたからこそ
2週間がある、、人生で置き換えると今を大切に生きることが、
過去、未来を肯定することであって
生きる証であるということではないでしょうか。
さぁ〜て!お祭り三日間大切に頑張るべ〜!

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(内町 表町上丁 平福記念美術館)


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(稲穂 ナタ豆)


平福記念美術館の入り口左側に生えている「ミツデカエデ」です。
見た目にはまるで桜の葉っぱのように見え、
とてもカエデの種類とは思えません。

このミツデカエデを調べると、
「葉は枝に「対生(たいせい)」で枝の一つ節に左右に向かい合って付きます。
葉と枝の間は、長い暗赤色の「葉柄(ようへい)」があります。
1枚の葉が進化して複数の小葉となり、小葉が平面的に付くのを複葉といいます。
その中でも「3出複葉(さんしゅつふくよう)」といい小葉が3枚ついています。」
と言うことで三枚の葉っぱで一つの葉の役割をして、
桜の葉に見えるけれども間違いなくカエデの種類だそうです。
私がいつも樹木のことを教えていただく佐々木先生によると、
このほかに平福記念美術館にある「ウリハダカエデ」
更に武家屋敷には生えていないようですが
「ヒトツバカエデ」など見た目がカエデに見えない面白いカエデがあるそうです。

良く見るとこのミツデカエデの奥の枝に
「セミの母(この辺ではセミの幼虫をそのように呼びます)」
の抜け殻がみっつ付いているの分かると思いますが、
枝の様子とこの抜け殻が夏の終わりを感じさせてくれます。
このミツデカエデ、どの様な色に紅葉するのか楽しみですね。

初めて見ましたが、
昔から食べてきた豆の種類で「ナタ豆(この辺での名前)」だそうです。
軽く湯がいて味噌漬けにして食べるそうですが粕漬けにしてみました。
どの様な味になるのでしょうか。

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先日戴いたコメントへの返信

森田様

コメントを戴き有難うございました。
基本的に葉っぱを付けての開花はありません。
但し葉っぱが出てから、遅く咲く花の部分的開花はあります。
更に寒い日が続いた為に開花が遅れて、
5月1日前後になった時には花の跡にすぐに葉っぱが出てきてしまうようです。
角館紀行5月5日と5月8日にそれらしい写真があると思いますが、
森田様の感じるところとは違い、答えになっていないと思いますが、
私のわかるところはこのくらいですのでお許し下さい。

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(外町 岩瀬町 西宮家)


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(田町上丁 西宮家)


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岩瀬町側の玄関は商人町としての入り口、
田町側は武家屋敷としての入り口、
先回に太田家でそのことを書きましたが、
この西宮家も今はそのように成っています。

岩瀬町の米蔵を改装して店舗とした時に新たに玄関を造り、
そこが外町としての商人町としての顔になりました。
田町上丁側は外町に唯一ある田町武家屋敷として玄関で、
その証としての冠木門が付いています。
この町内境は北蔵の横にある「へげ(堰)」で、
南側が岩瀬町、北側が田町上丁になっていて、
昔は花場山から沢水が流れていて、小魚が泳ぐ綺麗な堰で、
名前も京都にちなんで「加茂川」と呼んでいたそうです。

正面の昔の居間の雰囲気を漂わせる母屋、
右に重厚ななまこ壁のこて絵のついた文庫蔵、
左側にあるツバメの彫りの入った横の戸を持つ前蔵があり、
この前蔵は昔から屋敷の前にあるのでこのような名前が付いている事で、
正しくこちらが昔からの本当の玄関です。

米蔵の蔵前で古布を利用して草履を作っている人を見かけました。
この場所を借りて毎日ここで草履を作っているそうです。
その光景が妙に西宮家の雰囲気に合い、
ずうっとここで草履作りをしていたような感じで、
西宮家のお抱え草履師のようです。

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先日戴いたコメントへの返信

じゃりんこ様

コメントありがとうございます。
そうです、良く陣地を作り日の暮れるのも忘れて遊んだものです。
学校から帰ると真っ先に遊びあまり勉強した覚えがありません。
更に小学生は夜8時には布団に入り寝る準備、
起きていると父さんの雷が落ちました。
時間がゆっくり流れて良い時代でした。

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(角館きがた 武田信玄)


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(角館きがた 徳川家康)


「国指定重要無形民俗文化財」の「角館の祭り行事」
9月7日 角館鎮守神明社の宵祭り
9月8日 角館鎮守神明社に本祭り
      成就院薬師堂の宵祭り
9月9日 成就院薬師堂の本祭り
の曳山に乗る人形も仕上がってきました。

「角館きがた」人形師「文峰(ぶんぽう)」「文励(ぶんれい)」親子の作品です。
「西部若者(せいぶわかもの)曳山」の人形に場面は
「甲軍策略(こうぐんさくりゃ) 三方ヶ原(みかたがはら)」
徳川家康が武田信玄に負けて逃げていく場面です。
今年の大河ドラマも武田信玄の「風林火山(ふうりんかざん)」ですが、
甲斐の戦国大名「武田信玄」の旗指物(軍旗)に書かれた文字で
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山 」
疾(はや)きこと風の如く、
徐(しず)かなること林の如く、
侵掠(しんりゃく)すること火の如く、
動かざること山の如し
という意味だそうです。
9月7.8.9日の角館お祭りの曳山の動かし方は
正にこの風林火山ごとくではないでしょうか!

「西勝楽若者(にしかつらくわかもの)曳山」の場面は
「寿 曽我対面(ことぶき そがたいめん)」
立っている方が弟の「曽我十郎」座っている方が兄の「曽我三郎」で、
曽我兄弟が正月に挨拶に行く場面でめでたい時に乗せる人形だそうです。

因みに国の指定を受けたときの文面では
お祭りの終わりは「日の出」ということなので、
文化財的に云うと「10日朝の日の出」がお祭りの終わりだそうです。
名目は3日間ですが実質は4日間もの素晴らしいお祭りが、
18町内それぞれの人間模様、
人生の縮図のような物語が繰り広げられます。
内容を知れば知るほど魅力のあるお祭りです。


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(角館きがた 曽我兄弟)


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(角館きがた 神明社 置山の人形)

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(内町 東勝楽丁 岩橋家)


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(岩橋家)


岩橋家の縁の下です。
ここ40年ぐらいの建物でこのように縁の下がある建物は
ほとんど見かけなくなり、「縁の下」の意味さえも分からない人が
多くなってきたように思います。

岩橋家のような建物は床下がこのように風通しが良く、
更に建物は隙間が多い為く密閉状態でない為に木が息をする事が出来きます。
このような条件化なので建物が100年以上保つことができたのではと思います。
木造建築を長く持たせるには本物の木(合成材ではなく)を使用すること、
更に基礎部分には水に強くて硬い木、柱は太目の柾目を使用する、
縁の下を造り、空気の流通を良くしてやること、等ではないかと思うのですが、
現在の社会情勢(建築基準法を含め)、災害に強いか等が、
それを許す事ができるかどうかが問題です。

昔のお寺などは全てこのような建て方だったので、
100年以上の建物がたくさんありました。
更にそこは子供達の格好の遊び場で、
縁の下では、肝試しの為にもぐったり、探検ごっこで床下を通りぬけたりして遊び、
前広場では「縄跳び」「いっけにけ(石を足に乗せて歩いて相手の石に当てる遊び)」
「ぱった(めんこ)」「釘刺し」「ビー玉」「だるまさんごっこ」「缶ふみ」「三角野球」
角館独特の遊び「自前の曳山(50センチぐらい)ぶっつけ
(墓場で実際に蝋燭などを使って曳山ぶっつけをして叱られたものでした。)」
などで遊ぶ子供達で一杯でした。
今では想像もできない光景で古き良き時代の景色です。

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